わぁい!vol.2を読んでオトコの娘を考えた

わぁい!vol.2 読んだ。
神吉『さざなみチェリー』が意外な方向に面白くなってきた。
これはまずオトコの娘が直球で可愛くて元々良かったけど、前回ひたすら可愛くて彼氏をひっぱっていってたオトコの娘の内面の描写?が出てきてまだ何と言えばいいかわからない新感覚。
「こう思われていた人が実は…」な話が俺は大好物なのだが、オトコの娘でそれをやるとは思わなかった。でも実際に描かれてみると、オトコの娘の醍醐味は実はここにこそある気がする。「それだったらGIDものを読めば?」と言われそうだが、GIDものとはおそらく幾つかの点で決定的に違う。その違いをまだ俺はうまく説明できないのだが、直感的に言えば、GIDものよりは神様ものに近いとでも言うか。
雑誌全体を読んでいて思うけど、やっぱり女装ものは難しい。もっとたくさん概念が欲しい。10代前半以下の男の子を女装させて性欲の対象として見るのは異性愛の延長上に各地の文化で伝統的に普通に行われてきたものだろう。そこでは、身体のラインを隠す工夫などはおそらく基本的には要らないだろう。10代後半以降が女装するとなると、身体のラインを隠さなければならなくなる。そのオトコの娘を愛でる時に、隠されている部分について「本当はもっと女らしい体がいいのに」と思いながら愛でるとすれば、男らしい要素が見えた途端にいきなり萎えてしまって良くない。そこで萎えないセクシュアリティは同性愛だ。一方、愛でる主体が女性の場合は、「隠しきれない男の要素」がうっかり出てしまうこと自体を可愛がることができるんだろうと思うし、それが女装子好きの女性の本質かもしれないとも思う。そう考えると問題は、異性愛の男性が「男の要素がうっかり出てしまう」を可愛がることができるのか。つまり、それが可能な時点でその男性は同性愛者であり、自分のセクシュアリティを自覚ないし認容していないだけという妥協的で一時的な存在でしかないように見えるところにある。とはいえ、自分のジェンダーに対する認容が不十分な若い女性がBLでその期間をやり過ごすこともアリだと考えるならば、同性愛を異性装フェチと読み替えて若い時代をやり過ごすための漫画ジャンルもアリだろう。すると結局は男性異性愛の変種としてのオトコの娘ものと、男性同性愛もしくは女性異性愛の一種としてのオトコの娘ものはそもそもマーケットが違う(べきである、ラディカルに表現するために)ということに行き着く。
そこで全く別の軸を明確に提示するのが『さざなみチェリー』の第2話である。「ボクは別に男の人に興味はないんだけど…」と断言しつつも、男の恋人を持ち、自分からキスをし、「なんだろこの気持ち…」と悩む。客体ではなく主体としてオトコの娘を描くという時点で、これまで述べてきた女装ものと異なっている。この漫画は今のところ「体の男性要素」を見せていないのだが、それにはおそらく理由がある。すなわち、客体でないから体はどうでもいいのだ。体は話題の中心にならないので、いくらでも美化できる。男要素を捨象できる。洗濯物を取り込みたいのでもう端折るが、これの萌え方は、男性異性愛の変種であろう。俺がオトコの娘ものに一番期待したいのは、この分野である。