「良いものは良い」がどう嘘か

誰かにとって良いものが他の誰かにとっても良いとは限らない。
牛にとってフォアグラは価値がないし男性同性愛者にとって蒼井そらのヌード画像は価値がない。俺にとって巨乳の美女は特に価値がないし、あなたにとっては貧乳女性がおしっこで濡れたキュロットを穿いて立っているだけの画像におそらく価値はないだろう。
これは主体のアイデンティティに関わるというよりはその主体の置かれた状況に関わる。牛はフォアグラを必要とする体を持っていない。俺も賢者タイムにはおしっこで濡れたキュロットを必要としない。深夜アニメが大学4年生のAさんにとって価値があったが新入社員のAさんにとっては価値がなかったというような例はTwitterでよく目にする。この場合深夜アニメは「Aさん」という主体にとって価値があったのではなく「大学生」という状況にとって価値があったのだ。
音楽において誰にとって良いかを論じるのはすなわち音楽をリスナーの側から論じることだ。そこでは「良さ」は必ず「誰かにとって」という相対的なものでしかない。そしてその「誰か」に代入されるべきものは主体でなく状況だ。
音楽を生産の側から論じ「○○は10年に一人の天才だ」とか「○○が全てを変えた」とか言うのはこの「誰にとって良いか」の部分を隠蔽するものであり、おそらくある種のリスナー(例えばロックファン)を正しい価値観の人間と捉えもう一方である種のリスナー(例えばアイドルファン)を誤った価値観の人間と捉える世界観を前提としている。その世界観に俺は与しない。
和声や対位法の教科書には禁則が列挙されているが、その音に絶対的に価値がないから禁則なのではない。何らかの社会的な背景を前提としたある特定の様式において、その音が様式を破壊し社会の需要から逸れる可能性があるというのが禁則の意味だ。つまり音楽の理論について考えるならその理論において示される諸価値が「誰にとっての価値か」を離れることができない。
一つ前の記事で書いた「音楽の流行を必ず消費の側から考えている」というのには以上のような背景がある。補足しておく。
……文章書くのって難しいな。そもそも最近は文章読んでもないしな。