俺がボカロのヒット曲について考える時に前提としていることがよく誤解されている気がするという話

Twitterでボカロ曲の流行について書くと面白がって読んでくれる人がいる。しかしその面白がってくれる人は必ず同じ原因により俺の言っていることを完全に誤解しているような気がしてきた。
少なくとも今までの俺は音楽の流行を必ず消費の側から考えている。例えばビートルズについて考えるならビートルズのメンバーが何を思って何をしたか彼らの音楽がどう優れているか等については(第一次的には)考えない。当時の英国社会さらに当時の西側先進諸国があの音楽を必要とする前提として、当時どういう社会構造の変化がありその変化の一つ一つが音楽自体の諸要素のうちどれを要求したのかを考える。俺の関心は音楽を分析したときに現れる諸要素と身体との結びつきなので、音楽の社会的流行について考える局面では対象となっている社会全体の中で人々の身体に対する諸制約がどう変化したのかを考えることになる。
俺が「高速ボカロック」にことさらこだわっているのは上記の問題を考えるに当たって格好の材料となるからだ。いわゆるJ-POPの場合は競争が阻害されている。広告を打ち他業種の商品とタイアップしアーティストがテレビ番組でお笑い芸人と面白い話をし、ファンを獲得する。それで初めて可能になる種類のエンターテインメントがあるのは理解しているし90年代には俺もそれを楽しんでいたが、この構造における音楽の流行においては音楽の諸要素と身体との関係が前面に出ない。よくボカロのヒット曲は「全部同じ曲に聴こえる」と言われるが、これは音楽の諸要素自体とヒットとの間に密接な関係がある一つの(有力かどうかはわからないが)証拠だ。そこにおいて音楽の要素に何らかの意味があることがほのめかされれば、後はその要素がその社会の中での人々の身体とどう結びついているかを考えれば、音楽の要素と身体との関係が見えてくるはずだ。ニコニコ動画の自由競争システムがいつまで続くかわからないが、音楽の流行を自由競争によって作り出すことでリスナーの身体と音楽の諸要素との関係を人類史上初めて可視化したのがニコニコ動画だと俺は思っている。
その消費に着目する見方で俺が考えて書いたツイートを生産に着目する見方の中に位置づけて見たときに根本的な誤解が生まれるのではないかと思う。
……書いてみたら音楽理論と身体との関係についてのあたりで論理が飛躍している気がするが、140字を超える文章を書くのが久しぶりだからもう諦めよう。
【追記】まず自分が誤解してたなと思う。他人と話をする時にはそのままの前提で語ってはいけないということを。