つい禁始めた。

今年3月ごろに本格的に体調が悪くなって、今までいろんな診療科のいろんな医師に診せ、様々な検査を受けたが、まだ原因がわかっていない。本格的に悪くなったのは今年の3月ごろだが、思い返せば2008年の初夏にここに引っ越した動機が通学の疲労が限界に達したことだったので、その頃には既に生活に支障が出る程度には悪かったことになる。
今週初めにまた別の検査を受けてみた。数日で結果が出るから金曜日か土曜日にまた来いと言われた。それで今日の午前中に行ってきたらまだ結果が出ていないと言われた。家に帰ってしばらくすると電話がかかってきて、来週の木曜日にまた来いと言われた。
今週初めに採血してから、もし本当にこの病気だったら今いくら努力してもあまり意味がなく、全ての活動を治療開始後に行った方がいい、ような気がしていた。加えて、ここ数日は特に体調が悪かった。椅子に座っているのも辛かったのであまりパソコンに向かうこともできず、iPhoneiPadの画面を寝ながら見るほとんどそれだけの生活だった。土曜日(今日)に知る予定の検査結果だけを楽しみに時間を潰していた。その期限が木曜日に引き延ばされた。
iPhoneiPadで何をするかと言えばだいたいTwitterだ。1,000を超えるアカウントが垂れ流すツイートを眺める。アクティヴなアカウントは1,000もあるはずないからだいたい300人ぐらいとでもしようか。その300人の人達の生活と思考が進行していくのを布団の中からずっと見ている俺の方はただ検査結果を待つだけの廃人だ。その生活が当初聞かされていた通り数日で終わるのならまだ我慢ができたが、10日間もあるとなると耐えられなくなった。それで、Twitterからしばらく遠ざかることにした。
Twitterがある生活とない生活はやはり全然違う。思ったことをすぐ文字にして誰かが見得る状態にする、という行動をし得るのとし得ないのとでは全然違う。生活感がタイムラインから町内に引き戻される。意識がタイムラインになければわからないことももちろんあるが、町内になければわからないことももちろんある。入ってくる情報量が単純に減っただけではなく、増えてもいる。もちろん量の問題ではなく、内容的にも受容の仕方においても別種の情報だ。
意識を町内に置いたまま動画を見、アニメを見、曲を作り動画をうpする。そんな生活が懐かしく思えた。そんな生活でなければ得られない種類のものがあるはずだ。
本題と関係ないがこのブログの過去ログから他人のUTAU動画を見ていてふと思ったが、UTAUで俺がやっていたことは、ボカロでの需要を気にしないためにUTAUでやっていたというところがあるんだが、UTAUでも需要なかったな。作ってる時はどうだったんだろう。それをわかった上でやっていたんだろうか。とにかく一度あの路線は需要を考えずやりたい放題やってみる必要があったとは思うが、UTAUでも需要がないということをわかった上でも俺はあれをやっただろうか?やったかもしれないが、調査不足だったのではないかと思えてきた。とりあえず、コンテンツをどこかに公開するなら、その場の空気は調査しなければならない、ということを今更感じた。
……つい禁中だが、このエントリーだけ一方的に投げておこうかな。